地下鉄西馬込駅を出て太田区立郷土博物館まで、7分ぐらいでしょうか。ここのガイドブックを片手に馬込文士村を歩きました。JR大森駅まで寄り道をしながら歩くのが、ここの散策のやりかたのようです。



馬込文士村を歩く

郷土博物館で販売している本です。(\200)
約40名の紹介が掲載されています。でも住居跡といっても何もなく、このあたりと想像するだけです。解説版が設置されているとホツとします。無料の散策MAPもあります。
「馬込の農家」真野紀太郎
大正13年(1924)水彩

この頃から、いわゆる文士たちがこのあたりに住み始めたようです。真野紀太郎は明治45年(1912)から昭和33年(1958)まで、戦時中の疎開以外ずっと馬込に住み続け老衰のため87歳で亡くなりました。バラの花を得意とした画家で、こんなに長くここに住み続けた人は他には見あたりません。
解説版の下には、このパネルがはめこまれています。42名の中、半分ぐらいの人の解説版があるようですが、もうすっかり住宅地になっているので住人の迷惑にならないようにとの注意書きもあります。往事を思い浮かべながらの散策ということでしょう。


大田区立郷土博物館

郷土博物館の前庭
植え込みの埴輪が可愛い.区内の遺跡、文士達の作品、原稿のある2階。海苔養殖の歴史、生産用具の展示のある3階などがあります。
大田区立郷土郷土博物館 
大田区南馬込5−11−13
 03−3777−1070
入場料 無料
休館日 月曜

開館時間
午前9時ー午後4時30分
佐藤朝山
(1888-1963)

この博物館の所に大きな家とアトリエを構え、大正8年から昭和20年空襲で家が全焼するまで住んでいました。日本橋三越の吉祥天女の作者。


文士村の始まり

馬込は九十九谷と呼ばれ起伏の多い地です。周囲は雑木林と大根畑、ここに尾崎士郎と宇野千代が大正十二年(1923)に移り住みました。面倒見の良い親分肌で、多くの文士が誘いにのり、以前からいた画家や詩人、作家も加わり賑やかになりました。色々なグループが出来て、酒盛り、麻雀、ダンスなど、仲間がいれば心強いといった風潮です。なかには、孤高を守る人もいて、はっきりした定義はありません。来る者拒まず去る者追わずの自由さが、おおらかです。村八分など無縁のようでした。

左側は、小林古径の掲示板のある公園です。 右側は、添田さつきと北原白秋の掲示板のある公園です。古径というと、猿の絵(日本画)、白秋は「からたちの花」、添田さつきは、「ストトン節」を思い出します。皆、それぞれの郷愁があるのではないでしょうか。
山本周五郎の掲示板は、道路沿いにあって、公園は有りませんでした。


石坂洋次郎、稲垣足穂、今井達夫、宇野千代、尾崎士郎、片山広子、川瀬巴水、川端茅舎、川端康成、川端龍子、北原白秋衣巻省三、倉田百三、小島政二郎、小林古径、榊山潤、佐多稲子、佐藤朝山、佐藤惣之助、子母沢寛、城 左門、添田さつき、高見 順、竹村俊郎、萩原朔太郎、日夏耿之介、広津柳浪、広津和郎、藤浦 洸、真野紀太郎、牧野信一、真船 豊、間宮茂輔、三好達治、村岡花子、室生犀星、室伏高信、山本周五郎、山本有三、吉田甲子太郎、吉屋信子、和辻哲郎。
見たことがある、聞いたことがある、知ってる名前がある、そして読んだことがある懐かしい名前の羅列です。 長く住み続けた人も、転居をくりかえした人もあるこの馬込文士村は、心の故郷のようです。


このような案内板が時々道路の端にはめこまれています。
もっと沢山あったら、もう少し歩きやすいのにと、思いました。


神明神社
享保3年(1718)建立の庚申灯篭を探しました。神社も庚申灯籠も幼稚園の構内にありました。

神明神社 幼稚園の構内にありました。この辺は、神社やお寺の多いところです。 神明神社の額も注連縄も古いものでした この庚申灯籠は神社の本殿と背中合わせで道路に向いていました。


萬福寺

磨墨像
守治川合戦の先陣争いで”池月”と共に川を渡った”磨墨”は馬込の産とも言われ、生地に葬られ磨墨塚が臼田坂上にあります。
慈眼山萬福寺 山門
鎌倉初期、建久年間(1190)頼朝の命により梶原景時が梶原家相伝の阿弥陀如来三尊佛を本尊として建立された。山門は、茅葺き、総けやき造りの4脚門。
鐘楼
立派な鐘撞き堂です。
一石六地蔵 六地蔵
摩尼輪塔
(四天王が祀られている)
境内には、この他、日蓮上人が病状が悪化して、この萬福寺で一夜を明かしたお礼に寄進した鬼子母神像もありました。室生犀星の句碑、当山開基梶原平三景時の墓所、子安観音菩薩など、おおくの建造物があります。
室町時代末期に寺が荒廃したので天正3年(1575)鎌倉の禅僧明堂文龍和尚により従来の密教寺から曹洞宗に改め再興されました。
墓所も梶原家の子孫が江戸時代に建立したものです。


山王草堂
(蘇峰公園)
大田区立山王草堂記念館
大田区山王一丁目41番21号 TEL03-3778-1039
会館時間
休館日
入館料
交通
 午前9時ー午後4時30分
 12月29日ー1月3日
 無料
 JR京浜東北線大森駅 山王口下車 徒歩15分

徳富蘇峰はここ山王草堂に大正13年(1924)から昭和18年まで住みました。現在は大田区が昭和61年所有者の静岡新聞社から譲り受け蘇峰公園として整備されています。 公園の入り口に大きな馬込文士村の案内板があり名前がみんな書いてありました。ここから文士村を歩くのには便利でしょう。
徳富蘇峰翁像
記念館の内部には蘇峰の部屋の二階部分が復元され当時の家屋の様子が窺えます。
庭は広く色々な種類の木が植えられている。引越して来た時に持って来た木、あとから植えた木、自然に生い茂った木などの説明書きがありました。
蘇峰は文久3年(1863)から昭和32年(1957)のながい生涯でした。近世日本国民史は大正7年から昭和27年第100巻の脱稿まで、自筆で書いたそうです。交友も広く、十万通に及ぶ返信はギネスブックものではないかとの管理人さんの話でした。


大森貝塚
品川区立大森貝塚遺跡庭園
   開園時間
3−6月,9−10月
7,8月
11−2月

 午前9時ー5時
 午前9時ー6時
 午前9時ー4時

大森貝塚は明治十年(1877)アメリカ人、エドワードSモース博士によって発見され、日本で初めて学術調査が行なわれました。
縄文時代後期から晩期の貝塚遺跡で、日本考古学発祥の地です。
品川区では、モース博士の生誕地アメリカ・メイン州ポートランド市と姉妹都市提携し、その記念として昭和六十年五月この碑を建立しました。
貝塚庭園と言うだけあって内部は手入れが行き届いていました。白いところが発掘現場です。 これは洞窟でいろいろな体験が出来るようになっています。
イベント広場や、もと海だったところに波のオブジェを作ったり子供たちの学習の場が出来ていました。


貝塚庭園の前の道路、池上通りを南に行くと、5分ぐらいでJR大森駅に着きます。 おつかれさまでした。


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