日蓮聖人の足跡

貞応3年(1222年)2月16日安房の国小湊で父貫名重忠、母梅菊を両親として生まれ幼名を善日麿と称しました。 12才の時天台宗清澄寺に預けられ名も薬王麿と改名し読み書きや仏教の勉学に勤しみ16才の時出家得度し、是生連長と改めました。


歴仁元年(1238年)秋17才の連長は修学の旅に出て4年を鎌倉で過ごし、浄土や禅では飽きたらず、比叡山を中心に三井の園城寺や京都、奈良の諸大寺に出かけ勉学に励みます。
建長5年(1253年)4月28日早朝清澄山、旭の森へ登り太平洋から昇って来た太陽に向かい南妙法連華教と唱え立教開宗宣言をしました、名も日蓮と改めました。


文久8年ライバルの良観らの陰謀により捕えられた、日蓮は10月流刑地の佐渡に向う途中大嵐に遭い今にも船が転覆しそうになり皆生きた心地もなく震えていたその時日蓮は念珠をもんでお経を唱え水竿を取り海面に南妙法連華教と書きました、其の字は暫く消えずその内龍神が感応したのか嵐も治まり無事佐渡、松が崎に着きました。 文久11年(1274年)2月4日漸く赦免された日蓮は鎌倉の北条時宗に招かれ蒙古襲来に付いて意見を聞かれます。弘安4年5月北九州に攻撃してきた蒙古の大軍に打ち勝つ国難退散の祈祷を行った為7月30日の晩に突如として神風が起こりたちまち蒙古軍は博多湾に沈んでしまいました。


身延山に入って8年目 60才になった日蓮は漸く完成した大坊で開堂の供養が行なはれ、此の坊は久遠寺と名付けられました。この頃 長年の多難、困苦欠乏のため健康を害した日蓮は湿気が多く気候も悪い身延を去ることになります。 池上に着いた日蓮はすっかり衰弱して病の床に付いてしまいます、少し体力を回復した10月8日 枕元に日昭 日朗 日興 日向 日頂 日持の6人を集め法華経を広く布教するように命じます。11日に13才の経一麿を呼び帝都への布教を命じます。


経一麿は後に京都に、法華経信仰の基礎をきずき、妙顕寺を建立した日像その人です。此の地で死んでも骨は身延に埋め日昭以下が交代で守る様にと、遺命を残し枕を北に横になり法華経を静かに唱え、やがてその声は途切れ、そのまま眠り続けました。弘安5年(1282年)10月13日61才の生涯を閉じたのでした。