明治維新の英傑・勝海舟は、洗足池の風光を愛し、この地に洗足軒(現・大森六中)と称する別荘を設けた。晩年の語録「氷川清話」で彼はこう語っている。

「洗足村の別荘は津田(仙)が勧めたから、250両かいくらかで安かったから、言い値のまま買い求めて、そのまま元の持ち主を住まわせて留守番をさせてあるのだ。持ち主はそれで自分の顔も立つし、臨時の収入もあったので、大そう喜んで大切に手入れをしてくれるよ。

 おれはまだ一度も行ってはみないが、だんだん四方の土地を売り込まれて、今では随分大きい屋敷になっているはずだ。・・・このごろは家もすこぶるりっぱになって、景色はよし、空気も清潔だということだ。このごろは屋敷へ百合と馬鈴薯を植えさせて、万一のときの用意に、その収穫したのを丁寧に貯蓄させているのだ」(角川文庫より)


 海舟は、洗足軒に楓樹数本を植えて次の歌をよんでいる。

○うゑをかば よしや人こそ 訪はずとも 秋はにしきを 織りいだすらむ

○染めいづる 此の山かげの 紅葉は 残す心の にしきとも見よ



勝海舟夫妻の墓  五輪塔の・・・左が妻・民子 右が海舟

 海舟は、明治32年(1899)1月19日に脳溢血でたおれ、21日没。76歳。遺言によりこの地に葬られた。葬儀の日、天も英雄の死を悲しむのか、粉雪が舞っていたという。(1823〜1899)
 妻・民子は、明治38年(1905)没。青山墓地に埋葬されたが、後ここに改葬された。


勝海舟・・・文政6年(1823)、江戸本所の旗本の家に生まれる。通称・麟太郎。一時安房守(後に安芳)を名のり、海舟と号す。
 10代のころ剣術に熱中していたが、洋学の必要性を感じ、蘭学や砲術・航海術を学ぶ。 

 万延元年(1860)、幕府の命をうけ咸臨丸を指揮し太平洋を渡る。
 明治維新のときは、幕府の代表として西郷隆盛を説得江戸城を無血開城して江戸を戦火から救った。
 また、風雲児・坂本龍馬の師として竜馬を大きく育てている。
 維新後は、新政府の参議や海軍卿、枢密顧問官等の要職につき活躍した。

 この海舟を、幕臣だった福沢諭吉は、「二君に仕えた幕臣」と批判した。 が、彼は、
「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張、我に与(アズカ)らず」 (行いは私がする。あれこれの批評は他人がする。私の知ったことじゃない)
 と、つぶやき相手にしなかったという。


 
彼は、大勢の没落士族に経済的援助をしたが、また、逆賊の汚名をきせれた西郷隆盛と徳川慶喜の名誉回復にも尽力した。 
 特に慶喜のことは長年の懸案だったようで、明治31年(1898)、慶喜がはじめて参内を許され明治天皇に拝謁できたので、ほっとしたのか、翌年この世を去った。、





 勝海舟夫妻の墓の隣りに、西郷隆盛の自筆の詩「留魂碑」がある。
 この「留魂碑」は、海舟が、隆盛の死をいたんで、明治12年(1879)私費を投じ、東京府南葛飾郡大木村の浄光院内に建てたものである。のち荒川の改修工事で移転せざるをえなくなり、大正2年(1913)、ここに移された。