富士講は富士を霊山として登拝する信仰組織。江戸初期に長谷川角行(かくぎょう)中期に食行身禄(じきぎょうみろく),村上光清が布教。浅間(せんげん)信仰と結び江戸八百八講と称するほど発展,深川,駒込などに模造富士(富士塚とも言われる)もできた。金剛杖に白衣姿で〈お山は晴天,六根清浄〉と唱えて登拝。扶桑教,丸山教,実行教,富士教は富士講系教団(MYPADIA'98から)
江戸時代富士山の山開きは旧暦6月1日であった。その時代富士山は誰でも登れるというわけではなく、富士講の講員が富士行者を先達に登山した。富士山は信者たちの聖域であり、登山できるのは男性だけであった。
この富士山へ登れない女性をはじめだれでもが、山開きの日に信仰の対象としての登山ができる人造富士山が江戸時代市中のあちこちに築かれた。なかでも「駒込富士」や「浅草富士」などは有名であったが、現存する富士塚は僅かである。
江戸時代から有名な富士塚。 文京区本駒込の富士神社境内にある。 古墳をそのまま富士山に見立てものとみら れている。 20段ほどの石段を登ると浅間神社の社が ある。塚全体が小さな森を作っており、富士 講社中の石碑などもたくさんあって、昔の姿 がわずかばかり偲ばれる。 |
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豊島区要町の浅間神社境内にある。 高さ3米、底辺の径5米ほどのこぶりな富 士塚である。 国の重要有形文化財の指定をうけている。 そためか周りは金網で厳重に守られていて 写真も金網越しとなってしまった。 やはり講中の石碑がたくさんあって往時の 繁栄が偲ばれる。 |
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