都電・三ノ輪橋駅から東へ約600m(地下鉄日比谷線・南千住駅、JR常磐線・南千住駅から徒歩2〜4分)の所に小塚原回向院がある。
 小塚原刑場で処刑された者は、江戸時代の初期は本所の回向院に葬られていたが、1667年(寛文7)に本所の回向院の別院として小塚原回向院が開かれ、処刑された者や行路病死者の供養をすることとなった。当時の名称は常行堂。


 境内に入ると、すぐ、狭い所に墓石や墓標が林立していて戸惑うが、歴史的に重要な寺である。特色は次のとおり。

【刑死者等20万を越える死者を埋葬。その中に歴史上の人物も多い】
 ○安政の大獄関係15名。吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎、梅田雲浜ら。
 ○桜田門外の変関係22名、坂下門外の変関係11名、2・26事件関係1名。
 ○墓石に金網をかぶせられている鼠小僧ら4名。

   等。

【蘭学を生んだ解体の地のシンボルである。】
 1771年(明和8)3月4日に杉田玄白、前野良沢、中川淳庵らが、ここ小塚原で刑死者の腑分けを観察した。それが、蘭書「ターヘル・アナトミア」の解剖図とそっくりだったので彼等は同書の翻訳の必要性を感じ、翌日から、「櫓舵のない船が大海に乗り出す」ような大事業に着手、1774年(安永3)ついに蘭学の基礎ともなった「解体新書」を完成させた。
 1922年(大正11)、これらの功績を記念して、回向院に「観臓記念碑」が建立された。


【現在も工事中に・・】
 1972年(昭和47)からの踏切立体交差と道路拡幅工事は回向院にも影響があり、旧本堂を取り壊して1974年(昭和49)に現本堂を再建したが、道路等工事中に多数の頭蓋骨が掘り出された。関連事項だが、1998年(平成10)にもJR常磐新線の工事中に105体の頭蓋骨が掘り出された。





 回向院を出てJR常磐線のガード下をくぐると、近くに首切地蔵が鎮座している延命寺がある。



 江戸時代、江戸近傍の仕置場(刑場)は、品川の鈴が森と、ここ小塚原の2カ所だった。小塚原刑場は、間口60間余、奥行30間余で、明治のはじめまで、磔(ハリツケ)、獄門、斬首などが執行された。その間、処刑等で小塚原に埋葬された死者は20万を越えるといわれる。
 ちなみに、梟示刑が廃止されたのは、1879年(明治12・1月)で、これによって(翌年?)梟首場が不要になった。

 徳川氏が江戸に入った頃、江戸の刑場は日本橋本町にあった。その後二つに分かれ、小塚原の場合は、鳥越橋傍、聖天町と移って、年次は不明だが(1651年(慶安4)頃?)、この地にきた。。

 首切地蔵は、高さ約3.6m、刑死者の菩提を弔うよう民間人の発願で1741年(寛保1)に建立された。
 この地蔵は、もっと南側にあったが、1895年(明治28)、鉄道工事の関係で今のところに移設された。


○延命寺のパンフレット「刑場跡周辺」などを参考にした。







 小塚原回向院には、幕末の志士を中心とする歴史上の人物や、芝居・講談で有名な人物等が多数埋葬されている(埋葬されていた)が、その幾人かを紹介しよう。

 なお、信頼度抜群の「広辞苑」、「大辞林」に説明があるものは、それを優先する。<広>は「広辞苑」、<大>は「大辞林」である。

吉田松陰
 幕末の志士。長州藩士。兵学に通じ、江戸に出て佐久間象山に洋学を学んだ。常に海外事情に意を用い、1854年(安政1)米艦渡来の際に下田で密航を企てて投獄。のち萩の松下村塾で子弟を薫陶。安政の大獄に座し、江戸で刑死。(1830〜1859) <広>

 当時,、刑死者の遺体は粗末に扱われていたが、門下生が獄吏にしかるべき手を打ち二つになった遺体をもらい受け、桂小五郎らが回向院に墓を造り埋葬した。
 その墓も幕吏によって壊されたが、高杉晋作らが奔走し、世田谷村にあった毛利家の土地に改葬した。後に松陰神社となる。
 右の写真は、松陰の碑で、1862年(文久2・3月)久坂玄瑞が建てた。
 松陰の死は、「幕府打倒!」 門下の若き獅子たちを奮起させた。

 辞世の歌 身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

橋本左内
 幕末の志士。福井藩士。緒方洪庵らに蘭学・医学を学び藩の洋学を振興。 藩主松平慶永(春嶽)に認められて藩政改革に当る。将軍継嗣問題で慶喜擁立に尽力。安政の大獄に座し斬罪。(1834〜1859)<広>


 橋本左内は、西郷隆盛も敬服した秀才だった。左内と春嶽は、欧米列強は力でアジア侵略をもくろんでいると認識し、その対策も幕府に進言している。ただ、ロシアを友邦国と考え提携の必要性を訴えていたが、これが安政の大獄で捕らえられた原因とする説もある。

 左内が刑死した2年後の1861年(文久1)、ロシア軍艦は対馬を不法に占拠し要塞を築きはじめた。幕府は退去するよう説得したが失敗。結局、イギリス公使に頼み東洋艦隊の力で退去させた。そのイギリス公使も、本国に対馬占領を進言していたという。 

 世界は弱肉強食の時代だった。回向院に眠る志士たちをはじめ国のために奔走した人物(特に若い人)が輩出しなかったならば、日本はどうなっていたのだろう。


 左内の場合も、春嶽が建てた墓を幕吏が許可しなかったので名前を伏せた墓石を建て、その後、遺骸と墓石は故郷に運ばれ橋本家墓所に改葬、1893年(明治26)墓石のみ回向院に戻された。

頼三樹三郎
 幕末の志士。山陽の第三子。詩文をよくし、嘉永年間、梅田雲浜らと謀り、大いに尊皇攘夷を議し、安政の大獄に坐し、江戸で刑死。(1825〜 1859)<広>

 辞世の歌 吾が罪は 君が代おもふ まごころの 深からざりし しるしなりけり

梅田雲浜
 幕末の志士。もと若狭小浜藩士。藩政を批判、士籍を削られる。尊皇攘夷を唱え、ロシア艦襲撃を企て、また、幕閣改造などを図る。安政の大獄に坐し、江戸の獄舎で病死。(1815〜1859)<広>

 辞世の歌 君が代を 思ふ心の ひとすぢに 吾が身ありとは おもはざりけり


相馬大作
 江戸後期の南部(盛岡)藩士。反目し合っていた隣藩、津軽の藩主を矢立峠に襲い失敗、江戸に逃れたが捕縛され、小塚原で斬罪。(1789〜1822)<広>


 以後、(例外は多いが)国事犯の処刑は小塚原刑場で執行されるようになる。


雲井竜雄
 幕末・維新の志士。米沢藩士。奥羽越列藩同盟によって官軍に抗しようとしたが成らず、1870年(明治3)政府を倒す陰謀を企てたとして斬首。(1844〜1870)<広>




 上の写真は、左から、ねずみ小僧次郎吉片岡直次郎高橋お伝腕の喜三郎の墓(碑)。金網で覆われている。


ねずみ小僧
 江戸後期の盗賊。名は次郎吉。武家屋敷のみ襲い、盗んだ金を貧乏人に施したという。1832年(天保3・3月)処刑。多くの歌舞伎・講談・小説などの題材となった。<大>
 
 盗賊・鼠小僧を有名にしたのは、講釈師・二代松林伯円と河竹黙阿弥の「鼠小紋東君新形」といわれる。
「鼠小紋」は、当局をはばかって別名を使っているが大入りを記録し、江戸中の評判になったそうだ。盗んだ金額は、2330両とも、12000両とも、22000両とも。
 しかし、鼠小僧の実物は、盗んだ金で贅沢をし、飲む打つ買うで消費し、貧乏人に施した形跡は無いそうだ。

 捕まったのは37歳のとき、市中引き回しのうえ小塚原で処刑された。

 1876年(明治9)、歌舞伎役者が大当たりのお礼に本所の回向院に鼠小僧の墓を建てる。お参りをする者が跡を絶たないそうだ。

片岡直次郎
 強請(ユスリ)が仕事の河内山宗春の関係者。講談や芝居でたいした悪党になっているが、事実はそれほどでもなかったらしい。

 38歳で刑死したが、その罪科は不明である。

高橋お伝
 上州生れ。殺人を犯すなど毒婦と評判された女性。1876年(明治9)捕えられ、79年(明治12)死刑。仮名垣魯文に「高橋阿伝夜叉譚」、河竹黙阿弥作に「綴合於伝仮名書」がある。(1850?〜1879)<広>


 明治時代の「明」を司馬遼太郎が、「暗」を山田風太郎が書いたといわれるが、風太郎は代表作「警視庁草紙」の中で、たしかに彼女は一人の男を殺したが犯罪らしい犯罪はこれ一つであり、これが日本の代表的毒婦の行状といえるであろうか? と疑問をなげかけ、お伝に毒婦の烙印をおしたのは戯作者仮名垣魯文の「高橋阿伝夜叉譚」だ、としている。
 もちろん現代でも、お伝の犯罪は、動機が淫蕩的で計画的かつ多量で並はずれている、と言う人もいる。 
 
 お伝は前記のとおり明治12年に処刑されたが斬首である。「文明開化」といいながら、明治も12年になって未だ斬首が行われていた。

腕の喜三郎
 「町屋の民俗」に、1831年(天保2)の祭礼で、御輿渡御のことで町屋村の名主夫婦が殺害されるという事件が起き、犯人の腕の清吉が翌年小塚原で処刑され、墓が回向院にある、とある。
 一方、「南千住の民俗」(区教育委員会)には、1832年(天保3・3月)に町屋村の腕の喜三郎が小塚原で処刑、とあるので、清吉と喜三郎は同一人物かもしれない。 この男も、芝居や映画の主人公になっている。