円通寺(曹洞宗)
延暦10年(791)円通寺が坂上田村麻呂により創建されたという。が実質的開山は寶歴14年没(1764)の劫外壺春である。安政2年(1855)の大地震までは、秩父、板東、西国百体の観音像を安置する観音堂があり百観音として広く知られていた。

観音像
本尊は、聖観音菩薩(一寸八分)。本堂は昭和56年コンクリートで建立、その上にそびえ立つ金色の聖観音像は高さが12メートル、大正12年高村光雲作とのこと。



首塚
永承5年(1050)、八幡太郎源義家、奥州の安倍貞任、宗任を討って四十八の首を持ち帰り、ここに埋め首塚を築いた。以来、この地を古塚(小塚)原と言うそうですが、小塚原の地名は諸説紛々です。

石造七重塔
享保七年(1722)首塚の上に建立、円通寺の縁起が刻まれてあるそうですが高い所で金網が張ってあるので、読むことはできませんでた。この字は荒川区で最古の物だそうです。
塔の下に、寛文、享保年間につくられた、お地蔵様があって、家光の鷹が止まった松とともに風流な塚です。
板碑も4基、7重塔と並んで立てられています。ここの板碑は、荒川区内でも群を抜いた大きさで、長さも1メートル以上、幅も区内のに比べて大きいのが特徴です。彫りも鮮やかです。




彰義隊戦士の墓
慶応4年(1868)5月上野戦争では、多くの彰義隊の隊士が戦死した。当時、円通寺の住職であった佛磨和尚と上野寛永寺御用商人三河屋幸三郎が官許を得て、266人の彰義隊士の遺体をこの円通寺に埋葬した。



旧上野の黒門

明治40年(1907)10月に帝室博物館から、寛永寺の黒門(明和9年製作)が下賜された。区の指定文化財として昭和61年補修、復元された。沢山の弾痕に戦いのすさまじさが偲ばれる。



板碑
板碑は、秩父地方産出の青石で作られた塔婆です。梵字や菩薩像などを彫って建てられたときの年月が刻まれています。円通寺には、「永仁四年十月」(1296)阿弥陀三尊の板碑をはじめ4基の板碑が、残っています。このあたりは板碑が多く発見され、荒川内区だけでも70基以上発見されてますが、あまり大切にされないので少なくなって行くそうです。敷石などにしてしまったり壊したり埋めてで歴史が分からなくなってしまうと、調査している人が嘆いてました。