明暦元年(1655)会津若松出身の天蓮社晴誉順波上人により開建



明暦3年(1657)、世に振り袖火事と言はれた大火より、江戸の中心から遊郭吉原が浅草寺の裏手に移転して、新吉原と呼ばれた。寛保2年(1742)に山門と本堂を建立。寛保3年(1743)以来大正15年まで10冊の浄閑寺の過去帳によれば新吉原の遊女・子供・水子など関係者が2万5千にも及び、多くは無縁仏として葬られたので長い間、投げ込み寺 又は、無縁寺と言われた。


慰霊塔
昭和4年8月、それまでの新吉原無縁仏を改修、新吉原総霊塔がたてられた。この檀家の八割は都内在住なので、参詣の人も多く、いつもたくさんの花が供えられている。
ひまわり地蔵尊
昭和57年(1982)12月11日建立。開眼 創作者 倉田辰彦(群馬出身)、発願主山谷老友会。山谷で一人、老いて淋しく人生を終わる人達の為に、死後の安らぎを願った倉田氏、老友会はじめ多くの人々の好意、浄財で実現したものです。”ひまわり”は太陽の下で働きぬいた日雇い労働者のシンボルとのこと。でも、今は山谷に限らず一人淋しく人生を終わる人が多くなっているような気がします。


永井荷風詩碑
永井荷風は、生前しばしば淨閑寺を訪れた。このような縁で、荷風死後4周年の命日である昭和38年4月30日に、谷崎潤一郎がここに詩碑を建立した。


    


   

浄閑寺の境内には、石造物が多く正和2年11月(1313)の記年銘の板碑などがあるのですが、区画整理して墓碑をまとめてしまい、狭いところの間を縫って歩くようなので思うように見つかりません。

豕塚
天保年間(1840)吉原大門の側で厄除けのため白い豕「たぶん猪らしい」を飼育していたのを、死後この寺に葬ったそうです。以来、この寺は、安政、関東の大震災、東京空襲の猛火を免れたと信じ人もいるそうです。この豕塚には猪の絵が彫ってあり「火伏せの豕」と称される。

小夜衣地蔵尊
京町1丁目四つ目屋善蔵の抱え遊女小夜衣は、女主人の讒言により放火の罪をきせられて、火あぶりの刑になった。ところが、一周忌、三回忌、七回忌のたびに、廓内から火が出て、四つ目屋はいつも全焼し、ついに潰れてしまった。廓内の人々が集まって霊を慰める仏事を行ってからは年忌ごとの火事はなくなったという。浄閑寺の山門、入り口の向かって左側に古い石のお地蔵様が建っています。これが小夜衣地蔵です。豕塚も小夜衣の話も、真偽はともかく、火の用心、人への思いやりが基になっていると思われます。