過去の町屋

町屋の由来

町屋の地名は全国に見られ、町屋には新たに開発されたところという意味があるそうです。

後には町屋とは「店が多いところ』という意味からとも言われています。

ここ町屋村の地名が史料に現れるのは江戸時代の初めころで日本橋まで2里あり,人々は

石神井用水からの水を使って生活していました。当時、住民は72戸程で,農業を営み、

下尾久村と三河島に隣接し北と東は荒川(現在の隅田川)に面していました。

江戸時代初期は幕府領で後に東叡山領となります。町屋村は一面の田圃地帯ですすき

の生えた荒木田原は旧三河島に存し、町屋村の高札場は北のはずれにあったということです。

田畑は南西部のやや高地にあり低地には田圃が広がっていました。

当時この当たりは江戸ではなく、「江戸え」の道しるべが在ったことからも分かります。

この『江戸へ」の道を通り江戸に向かいました。今でもこの通りは江戸道と呼ばれています。


三河島村との境にあった庚申塚のみが古い庚申塚信仰
の名残をとどめています。

かつての松(はすでに枯れ現在の松は植え替えられたものです。)「首懸の松」と呼ばれ,某高徳の僧が代官のためにこのところで斬首され首をさらされたといういわれがあります。

松を植え替えたとき地下より刀や人骨が出たということ
でした。

ここは商店街より尾竹橋に向かって、バス停から路地を一本奥に入ったところにあります。
昔の一本松はこんな風だったとか。


 町屋村は小塚原の天王さま(スサノオ神社)の氏子です。
町屋の佐久間杢右衛門が神輿を拾って神社に納めたという伝えがあり天王さまの祭礼の宮出は町屋村が代々行ってきました。
江戸時代には他の村の氏子との争いが絶えなくて、腕の清吉のような出来事も起こりました。。
東叡山領であった町屋は明治元年の上野戦争で敗れた彰義隊士が根岸口から落ちのびてきて,その数600人とも700人ともいわれています。官軍の探索は厳しかったが百姓や職人に身をやつし匿ったということで、その末孫が今も町屋にいます。

本尊の通称朝日薬師は目の病を癒し、産婦に豊かな乳を授けると言われています。 荒川区町屋2−20−12


上記の慈眼時と同様忘れてはならないのが原稲荷神社であります。江戸時代に町屋村の鎮守としての役割を果たしていました。
現在の建物は戦災で焼失したものを昭和27年に再建されたのです。鳥居の位置方向は従来のものと変わらないのですが社殿は元は鳥居を入り直線上にあったものが新社殿は南向きに建てらなぜこうしたかわわからない。

現在原稲荷神社はスサノウ神社が兼帯しています。

町屋駅に近く鳥居に原稲の額がある

町屋斎場

明治22年市町村制により三河島を含む大字町屋
となり町屋に火葬場の設置が決まりました。

都電荒川線の開設当初乗客のはとんどはこの火葬場に来るために利用したくらいで乗客の数はまばらで
あったということです。
小式部地蔵と呼ばれるこのお地蔵さんは御前試合の遺恨で父を失い母の病死で吉原の遊女として数奇な運命を生きた小式部を祭ったお地蔵さんです。



隅田川、当時の荒川、『あらぶる川』と言われたように一度川が氾濫すると人々の生活を脅かし、生活のすべてを奪った。田の稲を押し流し,一面の泥沼に変え、在る者達は荒川に船を係留しそれに家財を積み込み難を逃れようとしました。今はその面影も何の表示もありませんがこの川には幾つもの渡し場がありました。

荒川(現在の隅田川)

現在の隅田川はこのような川であります。しかしこの川は高い堤防に囲まれ川を見ることは出来ません。。この映像は右の水色の尾竹橋に近い階段を上って撮ったものです。



では堤防のこちら側はどうなっているかというと

上のような塀が延々と続いていますこの向こうが隅田川です。 上のような表示が塀の所々にあります。



町屋の人口が爆発的に増えたのは関東大震災いごであります。ここ町屋は震災の火災から免れました。そこで多数の被災者が町屋に移って来ました。当時町屋は多くの畑がありそこに家を建て農家は貸家を作り,農業から離れていきました。
このころから王電(都電荒川線)などの利用も盛んになりました。町屋の商店街が作られました。その賑わいは浅草の仲見世の様でした。遠く浦安からも買い物客がきました。その後も地下鉄千代田線が出きるまでは賑やかでした。

千代田線が開通し、都心への便が良くなり逆に賑わいを失いました。

   それではこれらがどの当たりに現在在るかを地図上で確かめてください。

町屋の地図

45 町屋の一本松

46 町屋火葬場

47 原稲荷神社

48 慈眼寺(朝日薬師)

50 荒木田原(現存していない)

105 一本松の渡し(現存していない


では現在の町屋はどうなっているかをご覧下さい。

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